
浪速のマンションから歩いて三分くらいの場所に、昔よく通ったパチンコ屋があった。
雨の日はもう少しかかった気もする。膝が重い日は四分。いや、五分だったかもしれない。
でも正確には覚えていない。
老いたパチンコ打ちの覚え書き

浪速のマンションから歩いて三分くらいの場所に、昔よく通ったパチンコ屋があった。
雨の日はもう少しかかった気もする。膝が重い日は四分。いや、五分だったかもしれない。
でも正確には覚えていない。

これに気づいたのは、プレイヤーとして夢中になっていたときじゃなくて、少し引いた目で見ていたときだった。
場所は大阪でも神戸でもない。マカオのカジノだ。まだ妻に半ば呆れられていた頃、よく通っていた。とにかく騒がしい場所で、1970年代の難波のパチンコ店よりも、もっと派手で明るい。なのに、なぜか時間の感覚だけがぼやけていく。
例えが変かもしれないが、温かいお茶に長く浸した餅みたいな感じだ。形は崩れていくのに、中身はそのまま残っているような。
気づけば「ちょっとだけ」のつもりが、立ち上がる頃には脚は固まり、背中も少し文句を言っている。そして時計を見ると、3時間。長いと5時間なんてこともあった。
別に勝っていたわけでもないし、大負けしていたわけでもない。
ただ、座っていただけ。
これが偶然じゃないと分かるまで、正直かなり時間がかかった。
――そして、なぜ今の私は昔よりもずっと静かに運を見ているのか

二十歳のころ、運って「何かが起きること」だと思ってたんだよね。
四十になるころには、「これは技術でどうにかできる」と本気で考えてた。
で、七十になった今はどうかというと――ちょっと違う結論に落ち着いてる。
運って、頼んでもいないのに勝手に来て、勝手にいなくなる「状態」みたいなものなんじゃないか、って。
――そして、その気づきがどんな戦略よりも多くを守ってくれた理由

若いころの私は、「今日はツイていない」なんて言葉、正直ちょっと嫌いでした。負けたあとに言い訳として使うものだと思っていたんです。自分の判断ミスを認めたくない人が、最後に逃げ込む場所みたいな。
でもね、七十歳になった今は、見方がだいぶ変わりました。
「自分の日ではない」って、結果の話じゃないんですよ。状態なんです。しかも面白いことに、大きく崩れる前に、ちゃんとサインは出ている。見方さえ間違えなければ、気づけるものです。

――「騙し」だから信用しない、という話ではないんだよね。むしろ逆で、出来が良すぎるから警戒してしまう。
自分はそれなりに長く打ってきた。
パチンコにボーナスもギフトもなくて、ただ店に入って打つかどうか、それだけだった頃を普通に知ってる世代だ。
だから、オンラインカジノで「ボーナス」が当たり前みたいに並び始めたときも、正直ワクワクはしなかった。
どちらかというと、「ああ、こう来たか…」みたいな静かな警戒のほうが先に立った。