
今朝、盆栽の枝を少し整えていたら、妻が台所のほうから「今度は何を書いているの」と聞いてきた。
「オンラインカジノのこと」と私が答えると、妻は少しも驚かなかった。結婚して四十五年以上も経つと、夫のすることなど、だいたい予想がつくらしい。たまに血圧の数値には驚かれるが、カジノの話ではもう驚かれない。
「年金を溶かさない方法でも書くの?」
妻はまな板から目も上げずにそう言った。
老いたパチンコ打ちの覚え書き

今朝、盆栽の枝を少し整えていたら、妻が台所のほうから「今度は何を書いているの」と聞いてきた。
「オンラインカジノのこと」と私が答えると、妻は少しも驚かなかった。結婚して四十五年以上も経つと、夫のすることなど、だいたい予想がつくらしい。たまに血圧の数値には驚かれるが、カジノの話ではもう驚かれない。
「年金を溶かさない方法でも書くの?」
妻はまな板から目も上げずにそう言った。

今朝、蝉が本気を出す少し前に、淀川沿いを歩いてきました。小さな肩掛けの鞄に、冷たい麦茶を一本入れて。
七十になると、大阪がフライパンみたいになる前に外へ出る、ということの大事さが分かってきます。若い人は「年を取ると自然に早起きになるんですね」と思うかもしれません。まあ、半分はそうです。もう半分は、こちらの体が暑さと話し合いをしてくれなくなるだけです。交渉決裂が早い。
浪速のほうへ戻る途中、自動販売機のそばで、若い男性がスマホを見ていました。私はその顔を、よく知っています。
悪い顔ではありません。怪しい顔でもない。ただ、半分は自分で考えていて、もう半分は画面のほうに持っていかれている。そういう顔です。
親指が動く。止まる。また動く。スクロールする。タップする。

オンラインカジノの画面で、はじめて「無料プレイ」という文字を見たとき、私は少し笑ってしまった。
大きな声で笑ったわけではない。七十にもなると、そんなにしょっちゅう大笑いはしない。古い友人と会ったときとか、妙にくだらないテレビを見たときとか、妻がこちらの考えていることを見事に言い当てたときくらいだ。そのときの笑いは、鼻から少し息が抜けるような、まあ、年寄りらしい笑いだった。
画面には、はっきりと「無料」と書いてあった。

妻は、私に「ギャンブルをやめなさい」と言ったことがない。
これ、実はかなり大きい。もし正面からそう言われていたら、私はたぶん少し意地になっていたと思う。怒鳴るとか、そういう話ではない。私はテレビ時代劇の侍ではなく、ただの大阪のおじいさんである。ただ、男というものには、いくつになっても少しだけ面倒くさい部分が残っている。「やめたほうがいい」と言われると、なぜか急に、自分の自由だとか、長年の経験だとか、分かっているのはこっちだとか、そういう演説を頭の中で始めてしまう。
妻は、そのへんを私よりずっと早く見抜いていた。

今でも、ふっと恋しくなる音がある。
勝ったときの音ではない。いや、もちろんそれも覚えている。玉がざあっと払い出される、あの金属の雨みたいな音。周りの人に「この人、今ちょっと運に選ばれましたよ」と知らせてしまう、少し照れくさい音だ。忘れたと言えば嘘になる。私は僧侶ではない。僧侶でも、あれだけ派手に鳴ればたぶん覚えていると思う。
でも、私が本当に懐かしいのは、その少し前の音だ。

私がオンラインカジノというものを知ったのは、2000年代の初めです。そのとき興味を持ったのは、見慣れたカードやルーレットが、どのようにパソコンの画面へ移されたのかということでした。
いま振り返ると、目を向けるべき場所はゲームの再現そのものではなかったように思います。この二十数年で大きく変わったのは、一回の賭けを取り囲む仕組みです。一方、同じルールと配当のもとで賭ける限り、画面が新しくなったからといって、確率までこちらに親切になったわけではありません。

バカラのテーブルには、少し奇妙なところがあります。プレイヤーが決められることは少ないのに、人によって遊び方がずいぶん違って見えるのです。
1980年代から1990年代にかけて何度かマカオを訪れたとき、私はバカラを遊びながら、人がどう座り、どう待ち、カードをどう扱い、結果をどう記録するかをよく見ていました。同じ勝敗の並びを見ても、すぐにチップを置く人もいれば、しばらく動かない人もいる。そこにはゲームのルールとは別に、それぞれの作法がありました。
こうした違いは、外から見ると上手さの差のようにも映ります。しかし、バカラで目立つ作法の多くは、カードを有利に動かす戦略というより、偶然の前で何もせずに待つことに、人が形を与えるための儀式なのではないか。今はそう考えています。

ブラックジャックの基本戦略を覚え始めた人が、いちばん戸惑うのは表の読み方ではないと思います。表どおりに動いて負けたあと、それでもその判断を正しかったと考えられるかどうかです。
ヒットと示された場面でカードを引き、10点札が来てバストする。次のハンドでは、基本戦略から外れたスタンドがディーラーのバストに救われる。結果だけを見れば、前者には×、後者には○を付けたくなります。
収支の記録としては、それで正しい。しかし、判断の採点まで同じ記号で済ませると、ブラックジャックから間違ったことを学びます。
――本当に難しいのは、負けた後じゃなくて、勝っている最中の判断なんだよね

負けるのは、やっぱりきつい。
これはもう、七十年も生きてきてるのに、いまだに慣れない。胸にずしっと来る。
でも実際のところ、一番やっかいなのは勝ってるときにやめることなんだ。

正しい選択を知りながら、別の選択をしたことがあります。ブラックジャックでのことです。
手札や結果を詳しく並べても、この話の中心は変わりません。私は知らなかったから間違えたのではない。正解を知っているだけでは、それを選べるとは限らなかった。あまり愉快な事実ではありませんが、この題を考える出発点にはなります。
「今日は自分の日ではない」と気づくのは、負けが続いたときではありません。自分が知っている基準よりも、直前の結果や、その場で作った理由を優先し始めたときです。次に何が起きるかは読めなくても、自分の決め方が変わったことなら確かめられます。