今朝、盆栽の枝を整えていたときのことだ。妻が私の肩越しにノートをのぞき込み、なぜ「17」という数字を三度も書いているのかと聞いた。

「ブラックジャックの記事を書こうと思ってね」
そう答えると、妻は、何ひとつ説明を受けていないような顔でうなずいた。
「あなたの記事を読んだ人が、年金まで賭けないようにしてちょうだい」
老いたパチンコ打ちの覚え書き
今朝、盆栽の枝を整えていたときのことだ。妻が私の肩越しにノートをのぞき込み、なぜ「17」という数字を三度も書いているのかと聞いた。

「ブラックジャックの記事を書こうと思ってね」
そう答えると、妻は、何ひとつ説明を受けていないような顔でうなずいた。
「あなたの記事を読んだ人が、年金まで賭けないようにしてちょうだい」

今朝、盆栽の枝を少し整えていたら、妻が台所のほうから「今度は何を書いているの」と聞いてきた。
「オンラインカジノのこと」と私が答えると、妻は少しも驚かなかった。結婚して四十五年以上も経つと、夫のすることなど、だいたい予想がつくらしい。たまに血圧の数値には驚かれるが、カジノの話ではもう驚かれない。
「年金を溶かさない方法でも書くの?」
妻はまな板から目も上げずにそう言った。

今朝、蝉が本気を出す少し前に、淀川沿いを歩いてきました。小さな肩掛けの鞄に、冷たい麦茶を一本入れて。
七十になると、大阪がフライパンみたいになる前に外へ出る、ということの大事さが分かってきます。若い人は「年を取ると自然に早起きになるんですね」と思うかもしれません。まあ、半分はそうです。もう半分は、こちらの体が暑さと話し合いをしてくれなくなるだけです。交渉決裂が早い。
浪速のほうへ戻る途中、自動販売機のそばで、若い男性がスマホを見ていました。私はその顔を、よく知っています。
悪い顔ではありません。怪しい顔でもない。ただ、半分は自分で考えていて、もう半分は画面のほうに持っていかれている。そういう顔です。
親指が動く。止まる。また動く。スクロールする。タップする。

オンラインカジノの画面で、はじめて「無料プレイ」という文字を見たとき、私は少し笑ってしまった。
大きな声で笑ったわけではない。七十にもなると、そんなにしょっちゅう大笑いはしない。古い友人と会ったときとか、妙にくだらないテレビを見たときとか、妻がこちらの考えていることを見事に言い当てたときくらいだ。そのときの笑いは、鼻から少し息が抜けるような、まあ、年寄りらしい笑いだった。
画面には、はっきりと「無料」と書いてあった。
今朝、まだ暑さが本気を出す前に、いつものように淀川沿いを歩いてきた。あの川は、旅行雑誌に載るような「息をのむ絶景」というタイプではない。そんなふうに言ったら、淀川にも失礼かもしれない。ただ、そこにある。広くて、少し青みがかった灰色で、朝の光を細かく拾いながら、いつもの顔で流れている。
釣り竿を二本、自転車の後ろにくくりつけた男が通り過ぎた。手すりの近くでは、年配の女性が肩をゆっくり回していた。後ろのほうでは配送トラックがバックする音を鳴らしている。日本のバック音というのは、どうしてああも申し訳なさそうに聞こえるのだろう。悪いことをしているわけでもないのに。
そんな朝に、私は夢洲のことを考えていた。


浪速のマンションから歩いて三分くらいの場所に、昔よく通ったパチンコ屋があった。
雨の日はもう少しかかった気もする。膝が重い日は四分。いや、五分だったかもしれない。
でも正確には覚えていない。

妻は、私に「ギャンブルをやめなさい」と言ったことがない。
これ、実はかなり大きい。もし正面からそう言われていたら、私はたぶん少し意地になっていたと思う。怒鳴るとか、そういう話ではない。私はテレビ時代劇の侍ではなく、ただの大阪のおじいさんである。ただ、男というものには、いくつになっても少しだけ面倒くさい部分が残っている。「やめたほうがいい」と言われると、なぜか急に、自分の自由だとか、長年の経験だとか、分かっているのはこっちだとか、そういう演説を頭の中で始めてしまう。
妻は、そのへんを私よりずっと早く見抜いていた。

今でも、ふっと恋しくなる音がある。
勝ったときの音ではない。いや、もちろんそれも覚えている。玉がざあっと払い出される、あの金属の雨みたいな音。周りの人に「この人、今ちょっと運に選ばれましたよ」と知らせてしまう、少し照れくさい音だ。忘れたと言えば嘘になる。私は僧侶ではない。僧侶でも、あれだけ派手に鳴ればたぶん覚えていると思う。
でも、私が本当に懐かしいのは、その少し前の音だ。

これに気づいたのは、プレイヤーとして夢中になっていたときじゃなくて、少し引いた目で見ていたときだった。
場所は大阪でも神戸でもない。マカオのカジノだ。まだ妻に半ば呆れられていた頃、よく通っていた。とにかく騒がしい場所で、1970年代の難波のパチンコ店よりも、もっと派手で明るい。なのに、なぜか時間の感覚だけがぼやけていく。
例えが変かもしれないが、温かいお茶に長く浸した餅みたいな感じだ。形は崩れていくのに、中身はそのまま残っているような。
気づけば「ちょっとだけ」のつもりが、立ち上がる頃には脚は固まり、背中も少し文句を言っている。そして時計を見ると、3時間。長いと5時間なんてこともあった。
別に勝っていたわけでもないし、大負けしていたわけでもない。
ただ、座っていただけ。
これが偶然じゃないと分かるまで、正直かなり時間がかかった。

若い頃は、とにかく「できること」を増やしたくて仕方なかったんです。あれもこれも試して、少しでも上手くなりたくて。でも七十を過ぎてみると、逆でしたね。「やらないこと」を決めるほうが、よっぽど効く。
五十年以上、パチンコ台の前やマカオのテーブルに座ってきました。いい日もあれば、思い出したくない夜もある。その中で、別に頭が良くなったわけじゃないんです。ただ、自分のクセに気づいて、それを少し避けられるようになった。それだけです。
これは誰かに教えるためのものじゃありません。自分のためのメモみたいなものです。「もうこれはやらない」と決めたことの記録です。