
私がオンラインカジノというものを知ったのは、2000年代の初めです。そのとき興味を持ったのは、見慣れたカードやルーレットが、どのようにパソコンの画面へ移されたのかということでした。
いま振り返ると、目を向けるべき場所はゲームの再現そのものではなかったように思います。この二十数年で大きく変わったのは、一回の賭けを取り囲む仕組みです。一方、同じルールと配当のもとで賭ける限り、画面が新しくなったからといって、確率までこちらに親切になったわけではありません。
老いたパチンコ打ちの覚え書き

私がオンラインカジノというものを知ったのは、2000年代の初めです。そのとき興味を持ったのは、見慣れたカードやルーレットが、どのようにパソコンの画面へ移されたのかということでした。
いま振り返ると、目を向けるべき場所はゲームの再現そのものではなかったように思います。この二十数年で大きく変わったのは、一回の賭けを取り囲む仕組みです。一方、同じルールと配当のもとで賭ける限り、画面が新しくなったからといって、確率までこちらに親切になったわけではありません。
「システム」という言葉そのものが怪しいわけではありません。手順を決めておけば、その場の気分で判断を変えにくくなります。私もブラックジャックの基本戦略は尊重しています。
私が信用しないのは、手順と利益のあいだに説明のない橋を架けて、「この通りに賭ければ勝てる」と言う仕組みです。

こうした話を見分けるとき、最初に確認したいのは勝率ではありません。「勝った一回」と「負けた一回」が、同じ大きさなのかどうかです。

バカラのテーブルには、少し奇妙なところがあります。プレイヤーが決められることは少ないのに、人によって遊び方がずいぶん違って見えるのです。
1980年代から1990年代にかけて何度かマカオを訪れたとき、私はバカラを遊びながら、人がどう座り、どう待ち、カードをどう扱い、結果をどう記録するかをよく見ていました。同じ勝敗の並びを見ても、すぐにチップを置く人もいれば、しばらく動かない人もいる。そこにはゲームのルールとは別に、それぞれの作法がありました。
こうした違いは、外から見ると上手さの差のようにも映ります。しかし、バカラで目立つ作法の多くは、カードを有利に動かす戦略というより、偶然の前で何もせずに待つことに、人が形を与えるための儀式なのではないか。今はそう考えています。

ブラックジャックの基本戦略を覚え始めた人が、いちばん戸惑うのは表の読み方ではないと思います。表どおりに動いて負けたあと、それでもその判断を正しかったと考えられるかどうかです。
ヒットと示された場面でカードを引き、10点札が来てバストする。次のハンドでは、基本戦略から外れたスタンドがディーラーのバストに救われる。結果だけを見れば、前者には×、後者には○を付けたくなります。
収支の記録としては、それで正しい。しかし、判断の採点まで同じ記号で済ませると、ブラックジャックから間違ったことを学びます。

「今日は運がよかった」と「私は運がいい」は、よく似た言葉です。けれど、賭け事の中では同じ働きをしません。
前者は、終わった結果を振り返っています。後者は、偶然をその人の性質に変えます。そして「私は運がいい。だから次も」という一文が続くと、まだ起きていない勝敗にまで話が伸びていきます。
私は賭け事と、その周りにいる人たちを五十年近く見てきました。それでも、結果が出る前に「運のいい人」を見分けられるようにはなりませんでした。結果が出たあとなら、誰にでも言えます。ずいぶん簡単な鑑定です。
長い時間をかけて分かってきたのは、運の正体というより、「運」という言葉がいつ次の判断へ入り込むのか、ということでした。
――本当に難しいのは、負けた後じゃなくて、勝っている最中の判断なんだよね

負けるのは、やっぱりきつい。
これはもう、七十年も生きてきてるのに、いまだに慣れない。胸にずしっと来る。
でも実際のところ、一番やっかいなのは勝ってるときにやめることなんだ。

正しい選択を知りながら、別の選択をしたことがあります。ブラックジャックでのことです。
手札や結果を詳しく並べても、この話の中心は変わりません。私は知らなかったから間違えたのではない。正解を知っているだけでは、それを選べるとは限らなかった。あまり愉快な事実ではありませんが、この題を考える出発点にはなります。
「今日は自分の日ではない」と気づくのは、負けが続いたときではありません。自分が知っている基準よりも、直前の結果や、その場で作った理由を優先し始めたときです。次に何が起きるかは読めなくても、自分の決め方が変わったことなら確かめられます。

「同じ過ちを繰り返した」と書くと、毎回まったく同じことをしたように聞こえます。実際には、過ちはそのたびに少し姿を変えていました。
負けた日は、元に戻るまで続けたい。勝った日は、もう一度だけ確かめたい。予定の時刻を過ぎれば、ここまで来たのだから今やめるのは惜しい。理由は違って見えても、していたことはよく似ています。結果が出たあとに、結果が出る前の約束を書き換えていたのです。
賭け事とその周りの人を五十年近く見ていれば、初心者の過ちは自然に減るものだと思っていました。確かに、ルールの勘違いや単純な計算違いは、覚えれば直せます。厄介なのは、知識が足りないためではなく、自分の判断を守るために起きる過ちです。経験はそれを消すどころか、ときには言い訳の語彙を増やします。私にも、その方面の覚えは十分にあります。

麻雀は四人で打ちます。けれど若い頃の私の卓には、ときどき五人目がいました。
他人からどう見られるか、という気持ちです。
牌の形や点棒とは関係のないところで、そいつは口を出します。ここで退けば弱く見える。押せば腹の据わった人間に見える。誰かにそう言われたわけではありません。自分で相手の評価を想像し、自分でそれに返事をしていたのです。