
引き際については、これまで何度も考えてきました。けれど、私がいちばん静かだと思う境界線は、出口ではなく入口にあります。
腹が立っている。ひどく疲れている。酒が入っている。家族と口論した直後。悪い知らせを、しばらく忘れたい。そんなときに賭け事を始めると、ゲームに遊びとは別の仕事をさせることになります。
気分を直してくれ、という仕事です。
老いたパチンコ打ちの覚え書き

引き際については、これまで何度も考えてきました。けれど、私がいちばん静かだと思う境界線は、出口ではなく入口にあります。
腹が立っている。ひどく疲れている。酒が入っている。家族と口論した直後。悪い知らせを、しばらく忘れたい。そんなときに賭け事を始めると、ゲームに遊びとは別の仕事をさせることになります。
気分を直してくれ、という仕事です。

バカラのテーブルには、少し奇妙なところがあります。プレイヤーが決められることは少ないのに、人によって遊び方がずいぶん違って見えるのです。
1980年代から1990年代にかけて何度かマカオを訪れたとき、私はバカラを遊びながら、人がどう座り、どう待ち、カードをどう扱い、結果をどう記録するかをよく見ていました。同じ勝敗の並びを見ても、すぐにチップを置く人もいれば、しばらく動かない人もいる。そこにはゲームのルールとは別に、それぞれの作法がありました。
こうした違いは、外から見ると上手さの差のようにも映ります。しかし、バカラで目立つ作法の多くは、カードを有利に動かす戦略というより、偶然の前で何もせずに待つことに、人が形を与えるための儀式なのではないか。今はそう考えています。

「同じ過ちを繰り返した」と書くと、毎回まったく同じことをしたように聞こえます。実際には、過ちはそのたびに少し姿を変えていました。
負けた日は、元に戻るまで続けたい。勝った日は、もう一度だけ確かめたい。予定の時刻を過ぎれば、ここまで来たのだから今やめるのは惜しい。理由は違って見えても、していたことはよく似ています。結果が出たあとに、結果が出る前の約束を書き換えていたのです。
賭け事とその周りの人を五十年近く見ていれば、初心者の過ちは自然に減るものだと思っていました。確かに、ルールの勘違いや単純な計算違いは、覚えれば直せます。厄介なのは、知識が足りないためではなく、自分の判断を守るために起きる過ちです。経験はそれを消すどころか、ときには言い訳の語彙を増やします。私にも、その方面の覚えは十分にあります。