先に、少し困る答えから書きます。 閉店したパチンコ店の常連を、その後まで全国規模で追った調査は、私が確認した範囲では見当たりません。別のホールへ行く。公営競技へ移る。スマートフォンに向かう。賭け事そのものをやめる。候補はいくらでも並べられますが、並べただけで事実にしてしまうと、話は分かりやすくなっても人間のほうが雑になります。 私は1970年代から、大阪や神戸のパチンコ文化を見てきました。浪速から新世界、恵美須町、日本橋へ向かう道には、小さなホールが飲食店や修理店などと並んでいたものです。パチンコは、いまも私にとって最も身近に感じる遊びです。ただし、長く見てきたことと、見えなくなった人の行き先を知っていることは同じではありません。 では、何なら分かるのか。店の数と規模、そして人が店へ通っていた理由です。この二つを重ねると、「どこへ行くのか」という問いが、単なる店選びの話ではないことが見えてきます。 減っているのは、店の数だけではありません 警察庁が公表した2025年末の統計によると、全国のパチンコ営業所は6,464店でした。2021年末は8,458店ですから、4年間で1,994店減っています。 もう一つ目を引くのは、規模別の変化です。500台以下の営業所は、同じ期間に5,778店から3,673店へ減りました。一方、501台以上の営業所は2,680店から2,791店へ増えています。500台以下をすべて「近所の小さな店」と呼ぶことはできません。それでも、店が少なくなる一方で、大きな店の比重が増していることは確かです。 この数字は、閉店後の客の移動先を直接示すものではありません。ただ、打ち続ける人の受け皿が、残った大型店へ集まりやすい構造になっているとは考えられます。「パチンコをやめた」のではなく、「以前より遠い店へ変えた」人もいるでしょう。反対に、近さそのものが通う条件だった人は、同じようには移れません。 常連が通っていたのは、台だけではありません この点を考える材料になるのが、大阪府内のパチンコ店で高齢者を調べた2024年の研究です。調査は吹田市と豊中市にある500台超の3店舗で行われ、目測で65歳以上とした84人に聞き取りをしています。 対象者のおよそ8割は週3日以上来店していました。来店目的は「趣味」が36.9%で最も多く、「日課」が25.0%、「友人」が19.0%と続きます。店に友人がいると答えた人も、各店舗で60~70%いました。また、公共交通機関を使う人は少なく、自転車やバイクで行ける店を選んでいる可能性も指摘されています。 もちろん、これは全国の常連を代表する調査ではありません。協力を得られた3つの大型店に、その時点で来ていた高齢者を調べたものです。閉店した店の客を追跡した研究でもありません。それでも、一つの店が「遊ぶ場所」「週の予定」「外へ出る理由」「知った顔に会う場所」を同時に担うことがある、と理解するには役立ちます。 ここで、パチンコ店を美しい共同体に仕立てるのも違うと思います。60~74歳の男性を対象にした別の研究では、パチンコをする人は友人が少なく、ほかに力を入れている活動を持たない傾向があり、パチンコを通じた交流は広がりにくいと報告されています。 二つの研究は、必ずしも矛盾しません。店の中に話せる相手がいることと、店の外まで人間関係が広がることは別だからです。毎週顔を合わせても電話番号は知らず、休憩室では話しても閉店後の約束はしない。そんな関係もあります。立派な友情とは呼ばれない細いつながりでも、なくなれば一日の形を変えます。 「別の賭けへ移った」と決めつけない 店がなくなったあと、同じ人が別のホールへ通えば、その移動は数字に表れやすいでしょう。けれど、外出の回数が減った人、以前の時間だけ家にいるようになった人、顔見知りと会わなくなった人は、ホールの統計から消えるだけです。遊びをやめたのか、行ける店を失ったのか、別の習慣ができたのかまでは分かりません。 そこで「今はみんなスマートフォンへ移った」とまとめたくなりますが、これも慎重に分ける必要があります。昔の台の動画を見ること、金銭を賭けないゲームで遊ぶこと、法律に基づく公営競技、投資、違法なオンライン賭博は、同じ画面に表示できても同じ行為ではありません。 とくにオンラインカジノについては、日本国内から接続して賭博を行えば、運営会社が海外で合法的な免許を持っていても犯罪です。現在の法的な説明は、警察庁のオンラインカジノに関する注意喚起で確認できます。閉店したホールの「便利な代わり」として扱えるものではありません。 画面は、玉の動きや結果を待つ時間の一部なら再現できます。しかし、店までの移動、決まった時刻、同じ空間にいる他人までは運んでくれません。反対に、別の集まりへ参加すれば人との接点は戻っても、パチンコ特有のリズムが戻るとは限らない。常連が一つの店で得ていたものは、閉店すると別々の問題になります。 探すべきは「次の店」より、消えた組み合わせです 家族や周囲の人がその後を気にするなら、私は「次は何に賭けているのか」だけを見ないほうがよいと思います。以前ホールへ行っていた曜日や時間は、いま何に使われているのか。外出そのものが減っていないか。店で会っていた人との関係は残っているか。そして、使っていたお金が、より見えにくい場所へ移っていないか。 どれか一つを確認すれば十分、という話ではありません。反対に、閉店をきっかけに穏やかにやめた人まで、隠れて何かをしていると疑う必要もない。店が閉じたことは回復の証明でも、新しい問題の証明でもなく、まず環境が変わったという事実です。 昔のホールの映像を見れば、台や音は思い出せます。それでも、当時そこにあった関係までは画面に戻りません。大きな店に移れば台は見つかっても、以前の顔ぶれはついてこない。別の趣味を始めれば予定は埋まっても、同じ種類の待つ時間になるとは限りません。 パチンコ店が消えたあと、常連たちはどこへ行くのか。 正確には、同じ場所へ行くわけではない、としか答えられません。別のホールへ移る人もいれば、賭け事から離れる人もいるでしょう。そして、行き先を持たないまま、以前その店に使っていた時間だけが空く人もいるはずです。ただ、その割合を知っているふりはできません。…
ゲーム観察

これに気づいたのは、プレイヤーとして夢中になっていたときじゃなくて、少し引いた目で見ていたときだった。
場所は大阪でも神戸でもない。マカオのカジノだ。まだ妻に半ば呆れられていた頃、よく通っていた。とにかく騒がしい場所で、1970年代の難波のパチンコ店よりも、もっと派手で明るい。なのに、なぜか時間の感覚だけがぼやけていく。
例えが変かもしれないが、温かいお茶に長く浸した餅みたいな感じだ。形は崩れていくのに、中身はそのまま残っているような。
気づけば「ちょっとだけ」のつもりが、立ち上がる頃には脚は固まり、背中も少し文句を言っている。そして時計を見ると、3時間。長いと5時間なんてこともあった。
別に勝っていたわけでもないし、大負けしていたわけでもない。
ただ、座っていただけ。
これが偶然じゃないと分かるまで、正直かなり時間がかかった。

「同じ過ちを繰り返した」と書くと、毎回まったく同じことをしたように聞こえます。実際には、過ちはそのたびに少し姿を変えていました。
負けた日は、元に戻るまで続けたい。勝った日は、もう一度だけ確かめたい。予定の時刻を過ぎれば、ここまで来たのだから今やめるのは惜しい。理由は違って見えても、していたことはよく似ています。結果が出たあとに、結果が出る前の約束を書き換えていたのです。
賭け事とその周りの人を五十年近く見ていれば、初心者の過ちは自然に減るものだと思っていました。確かに、ルールの勘違いや単純な計算違いは、覚えれば直せます。厄介なのは、知識が足りないためではなく、自分の判断を守るために起きる過ちです。経験はそれを消すどころか、ときには言い訳の語彙を増やします。私にも、その方面の覚えは十分にあります。

麻雀は四人で打ちます。けれど若い頃の私の卓には、ときどき五人目がいました。
他人からどう見られるか、という気持ちです。
牌の形や点棒とは関係のないところで、そいつは口を出します。ここで退けば弱く見える。押せば腹の据わった人間に見える。誰かにそう言われたわけではありません。自分で相手の評価を想像し、自分でそれに返事をしていたのです。