
引き際については、これまで何度も考えてきました。けれど、私がいちばん静かだと思う境界線は、出口ではなく入口にあります。
腹が立っている。ひどく疲れている。酒が入っている。家族と口論した直後。悪い知らせを、しばらく忘れたい。そんなときに賭け事を始めると、ゲームに遊びとは別の仕事をさせることになります。
気分を直してくれ、という仕事です。
老いたパチンコ打ちの覚え書き

引き際については、これまで何度も考えてきました。けれど、私がいちばん静かだと思う境界線は、出口ではなく入口にあります。
腹が立っている。ひどく疲れている。酒が入っている。家族と口論した直後。悪い知らせを、しばらく忘れたい。そんなときに賭け事を始めると、ゲームに遊びとは別の仕事をさせることになります。
気分を直してくれ、という仕事です。

「高くついた」って聞くと、だいたいみんなお金の話を思い浮かべるよね。
昔の自分も、まさにそうだった。
でも今になって思うと、一番代償が大きかったのはお金じゃなかった。
時間だったんだよね。

私がオンラインカジノというものを知ったのは、2000年代の初めです。そのとき興味を持ったのは、見慣れたカードやルーレットが、どのようにパソコンの画面へ移されたのかということでした。
いま振り返ると、目を向けるべき場所はゲームの再現そのものではなかったように思います。この二十数年で大きく変わったのは、一回の賭けを取り囲む仕組みです。一方、同じルールと配当のもとで賭ける限り、画面が新しくなったからといって、確率までこちらに親切になったわけではありません。
「システム」という言葉そのものが怪しいわけではありません。手順を決めておけば、その場の気分で判断を変えにくくなります。私もブラックジャックの基本戦略は尊重しています。
私が信用しないのは、手順と利益のあいだに説明のない橋を架けて、「この通りに賭ければ勝てる」と言う仕組みです。

こうした話を見分けるとき、最初に確認したいのは勝率ではありません。「勝った一回」と「負けた一回」が、同じ大きさなのかどうかです。
――正直に言うと、この話って「受け入れるまで」が一番しんどいんですよね。
プレイヤーって、だいたいこう考えがちです。
カジノは賭け金を見てる、勝ち負けを見てる、って。
それ、完全に間違いではないです。
でも…そこが核心かというと、ちょっと違うんですよ。


バカラのテーブルには、少し奇妙なところがあります。プレイヤーが決められることは少ないのに、人によって遊び方がずいぶん違って見えるのです。
1980年代から1990年代にかけて何度かマカオを訪れたとき、私はバカラを遊びながら、人がどう座り、どう待ち、カードをどう扱い、結果をどう記録するかをよく見ていました。同じ勝敗の並びを見ても、すぐにチップを置く人もいれば、しばらく動かない人もいる。そこにはゲームのルールとは別に、それぞれの作法がありました。
こうした違いは、外から見ると上手さの差のようにも映ります。しかし、バカラで目立つ作法の多くは、カードを有利に動かす戦略というより、偶然の前で何もせずに待つことに、人が形を与えるための儀式なのではないか。今はそう考えています。

ブラックジャックの基本戦略を覚え始めた人が、いちばん戸惑うのは表の読み方ではないと思います。表どおりに動いて負けたあと、それでもその判断を正しかったと考えられるかどうかです。
ヒットと示された場面でカードを引き、10点札が来てバストする。次のハンドでは、基本戦略から外れたスタンドがディーラーのバストに救われる。結果だけを見れば、前者には×、後者には○を付けたくなります。
収支の記録としては、それで正しい。しかし、判断の採点まで同じ記号で済ませると、ブラックジャックから間違ったことを学びます。

「今日は運がよかった」と「私は運がいい」は、よく似た言葉です。けれど、賭け事の中では同じ働きをしません。
前者は、終わった結果を振り返っています。後者は、偶然をその人の性質に変えます。そして「私は運がいい。だから次も」という一文が続くと、まだ起きていない勝敗にまで話が伸びていきます。
私は賭け事と、その周りにいる人たちを五十年近く見てきました。それでも、結果が出る前に「運のいい人」を見分けられるようにはなりませんでした。結果が出たあとなら、誰にでも言えます。ずいぶん簡単な鑑定です。
長い時間をかけて分かってきたのは、運の正体というより、「運」という言葉がいつ次の判断へ入り込むのか、ということでした。
――本当に難しいのは、負けた後じゃなくて、勝っている最中の判断なんだよね

負けるのは、やっぱりきつい。
これはもう、七十年も生きてきてるのに、いまだに慣れない。胸にずしっと来る。
でも実際のところ、一番やっかいなのは勝ってるときにやめることなんだ。

正しい選択を知りながら、別の選択をしたことがあります。ブラックジャックでのことです。
手札や結果を詳しく並べても、この話の中心は変わりません。私は知らなかったから間違えたのではない。正解を知っているだけでは、それを選べるとは限らなかった。あまり愉快な事実ではありませんが、この題を考える出発点にはなります。
「今日は自分の日ではない」と気づくのは、負けが続いたときではありません。自分が知っている基準よりも、直前の結果や、その場で作った理由を優先し始めたときです。次に何が起きるかは読めなくても、自分の決め方が変わったことなら確かめられます。