
今朝、蝉が本気を出す少し前に、淀川沿いを歩いてきました。小さな肩掛けの鞄に、冷たい麦茶を一本入れて。
七十になると、大阪がフライパンみたいになる前に外へ出る、ということの大事さが分かってきます。若い人は「年を取ると自然に早起きになるんですね」と思うかもしれません。まあ、半分はそうです。もう半分は、こちらの体が暑さと話し合いをしてくれなくなるだけです。交渉決裂が早い。
浪速のほうへ戻る途中、自動販売機のそばで、若い男性がスマホを見ていました。私はその顔を、よく知っています。
悪い顔ではありません。怪しい顔でもない。ただ、半分は自分で考えていて、もう半分は画面のほうに持っていかれている。そういう顔です。
親指が動く。止まる。また動く。スクロールする。タップする。
もちろん、のぞき込んだわけではありません。大阪で他人のスマホを見るのは、なかなか失礼です。年収を聞くのと同じくらい、いや、場合によってはそれ以上かもしれません。ただ、画面の色、コインの絵、ボーナスらしき文字、「無料」「今だけ」みたいな言葉は目に入りました。
私は長いこと、パチンコホール、麻雀の小さな部屋、マカオのバカラ台、そして後にはオンラインカジノの画面を見てきました。煙がなくても、そこにある匂いのようなものは分かるようになります。
オンラインギャンブルの変なところは、匂いがないことです。
昔のパチンコホールには匂いがありました。煙草、熱を持った金属、安いコーヒー、疲れた男たち、入口の傘についた雨。麻雀の部屋にも匂いがありました。お茶、酒、カーテンに残った煙、不安そうでない顔をしている人たちの不安。八〇年代、九〇年代のマカオには、また別の空気がありました。お金、香水、絨毯、それから「運がこっちを見ている」と本気で思っている人たちの、妙に静かな緊張感。
オンラインカジノには、それがありません。手のひらの中にあります。普通のアプリみたいに。きれいで、なめらかで、親切そうに見える。
私は、その親切そうな感じが少し怖いのです。
今日は、特に日本にいる若い人に向けて、できるだけまっすぐ書きます。「海外のサイトだから大丈夫じゃないか」「外国でライセンスを持っているなら合法では」「少額なら問題ないだろう」――そう思っている人に、まず伝えておきたいことがあります。
私は弁護士ではありません。ただの古い遊び人です。だから法律相談はできません。でも、今の日本で当局がはっきり言っていることは、私にも分かります。
日本国内からオンラインカジノに接続して賭けることは、違法です。たとえそのサイトが海外で合法的に運営されていても、日本から賭ければ問題になります。
この一文に、うまい言い換えはありません。ブラックジャックで「ここはヒットか、スタンドか」と悩むような話ではない。バカラで「流れが来ている」とか言い合う話でもない。もっと単純です。日本国内からオンラインカジノで賭けることは、日本では犯罪として扱われます。
これを聞くと、嫌な気持ちになる人もいると思います。書いている私も、少し重いです。私は長く遊んできましたし、好奇心の気持ちも分かります。「一回だけ試してみたい」という誘惑も知っています。「このサイトはちゃんとして見える」「日本人向けに作ってあるなら大丈夫だろう」と、心の中で小さな声が言うのも分かります。
でも、その小さな声は法律知識ではありません。便利さがネクタイを締めて、もっともらしく話しているだけです。
そしてギャンブルでは、便利さはたいてい、こちらの味方ではありません。

よくある誤解――海外サイトなら大丈夫、ではない
若い人と話していると、ときどき同じような考えに出会います。ブログの読者からのメッセージでも、東京でITの仕事をしている息子の知り合いからでも、似たような言い方を聞きます。
「運営会社が海外なら、日本の法律は関係ないんじゃないですか」
なぜそう思うのかは分かります。インターネットは国境を薄く見せます。ヨーロッパから古いレコードを買える。韓国ドラマを見られる。カナダの人と話せる。行ったこともない国から台所用品を取り寄せることもできる。以前、うちの妻がネットで小さな陶器の器を買って、「これは他の器と違うのよ」と二十分くらい説明してくれました。私は今でもその違いを完全には分かっていませんが、荷物はちゃんと受け取りました。
だから、オンラインカジノが「海外ライセンスあり」と言えば、それでもう大丈夫な気がしてしまうのでしょう。
でも、ギャンブルは器を買うのとは違います。
大事なのは、会社がどこにあるかだけではありません。あなたがどこにいて賭けているかも大事です。大阪でも、東京でも、札幌でも、福岡でも、大学近くの小さなワンルームでも、日本の中にいて賭けているなら、その行為は日本から行われています。
ここを、昔から多くの広告はぼかしてきました。「海外合法カジノ」「日本人歓迎」「日本語サポート」「円で入金可能」。有名そうなゲーム、丁寧そうなカスタマーサポート、キラキラしたボーナス。画面だけ見ると、パチンコ台のほうが控えめに見えることもあります。
でも、「日本語対応」と「日本で合法」は別です。
これは地味ですが、かなり大事です。地味なことほど大事だったりします。米も、普段はそんなに話題になりません。なくなるまでは。
私はこういう誤解を、別の形で何度も見てきました。昔、マカオで日本人観光客がバカラ台に座っているのを見ました。どこか安心したような顔をしていた人もいます。日本を出たから、普通の決まりごとも少し置いてきたような気分だったのかもしれません。慎重な人もいました。二杯飲んだあと、急に声が大きくなり、自信だけが妙に裕福になる人もいました。
テーブルは気にしません。
テーブルは、いつも気にしません。
ただ、少なくともマカオでは、その人たちは実際に合法的なカジノの場にいました。オンラインの場合、錯覚の種類が違います。体は日本に残っているのに、注意だけがどこか遠くへ行っている。画面の向こう、海外のサイトで起きているように感じる。でも実際には、指はここにあります。
だから私は、オンラインカジノは昔の賭け場より大きくて派手だから危ない、とは思っていません。
むしろ静かです。
そして静かなものほど、人は軽く見やすい。
「でも日本にはパチンコがあるじゃないか」について
あります。パチンコはあります。
私は一九七〇年代からパチンコが好きでした。昔の機械には、もっと機械らしい手触りがありました。少なくとも私の記憶の中では、玉の音が何かを教えてくれているような気がしました。たぶん少し美化しています。年寄りが音の話をしはじめると危ないです。水道の水漏れでも人生論にしてしまいますから。
ただ、パチンコは日本の中で長く続いてきた、複雑で独特な仕組みの上にあります。だからといって、カジノ賭博が自由に合法という意味にはなりません。競馬、競輪、競艇、オートレース、宝くじなど、日本には特定の例外や公営競技があります。パチンコにも、好き嫌いは別として、日本の社会の中で形づくられてきた独自の構造があります。
パチンコホールがあるから、オンラインカジノも合法になる。そういう話ではありません。
これも、よくある誤解です。
以前、若い読者から「銀次さん、オンラインパチンコって、普通のパチンコとほとんど同じじゃないんですか」と聞かれたことがあります。まじめな質問だったので、私もなるべく穏やかに答えました。
感覚としては、似ている部分があるかもしれません。画面の中に見慣れたリズムがある。玉が動く。期待が生まれる。小さな「惜しい」が、脳の同じ場所をくすぐる。
でも、法律の面でも、実際の体験としても、「同じ」と考えてはいけません。
それに、身体の関わり方がまるで違います。
本物のパチンコホールでは、体が巻き込まれます。そこまで行かないといけない。座らないといけない。音を聞く。椅子の硬さを感じる。二つ隣で咳をしすぎるおじさんに気づく。恐ろしいくらい迷いなく台を移る女性に気づく。午前中からすでに人間の弱さを一通り見てきたような顔で歩く店員さんにも気づく。
現実の世界には、ブレーキがあります。
道徳のブレーキではありません。もっと小さな、物理的なブレーキです。
駅まで歩くこと。時間がかかること。財布の中の現金。玉の重さ。背中の疲れ。よくない流れのあとに立ち上がる、あの少し情けない感じ。夕飯までに帰らないといけないこと。妻に叱られはしないけれど、「味噌汁より台のほうが面白かったの?」と聞かれること。
この質問には力があります。
オンラインでは、そういうブレーキがかなり消えます。
どこにも歩いて行かない。空気の変化もない。負けを手のひらに持たない。隣の人の顔も見えない。靴下さえ履かなくていい。
これは小さな違いではありません。
寝る部屋、食べる部屋、娘からのメッセージに返事をする部屋にギャンブルが入ってくると、ギャンブルの形が変わります。日常の中に入り込む。それが怖いのです。人は一歩で山から落ちるわけではありません。たいていは、もっともらしい一歩を、少しずつ違う方向へ進めていくのです。
法律の問題と、習慣の問題
この話題は「違法か合法か」というものなので、多くの人は短い答えを求めます。
日本国内からオンラインカジノで賭けることは違法です。短く言えば、そうです。
ただ、そこで終わると、私としては一番言いたいことを言い残したような気になります。
法律が人を止めることはあります。もちろん、それで止まるべきです。でも七十年生きていると、人は紙に書かれた法律だけで必ず止まるわけではない、ということも分かってきます。人が本当に止まるのは、その危うさが自分の生活に触れたときです。
だから、少し別の言い方をします。
警察や罰則やニュースの前に、まずこう考えてみてください。
このゲームは、自分の注意をどう扱おうとしているのか。
私は今、オンラインカジノの画面を見るとき、いつもそう考えます。七十になった今、初めてマカオのバカラ台を見たときのような胸の高鳴りでサイトを開くことはありません。どちらかといえば、洗濯物を干す前に空を見る老人のような気分です。ゆっくり、少し疑って、雲に敬意を払いながら。
入金を急がせていないか。
ボーナスを贈り物のように見せて、条件を暗い水の底の小魚みたいに隠していないか。
タイマーを使っていないか。
「今だけ」という言葉で、こちらの指を速く動かそうとしていないか。
退出することを、損をすることのように感じさせていないか。
「もう一回」を、自然な次の動作にしていないか。
若い人はテクノロジーに強いです。東京でITの仕事をしている息子も、ときどき私に新しい仕組みを説明してくれます。頑固な患者に話す医者のような忍耐で。私はたぶん七割くらい理解しています。調子がいい日は七割二分くらいです。
でも、テクノロジーに強いことと、操作されていることに気づけることは同じではありません。むしろ画面に慣れているほど、「自分は分かっている」と思いやすい。けれど、画面のほうもこちらをよく分かっていることがあります。
カジノは、悪である必要はありません。よく設計されていれば、それだけで危ういのです。
現代の画面は、摩擦を消すのがとても上手です。食料品を注文したり、新幹線の予約をしたりするなら、ありがたいことです。でも、摩擦が消されているものが「リスク」だとしたら、話は変わります。
私がオンラインで最初にした失敗
私がオンラインカジノを知ったのは、二〇〇〇年代の初めでした。
当時のインターネットは、まだ少し粗かったです。ページの読み込みは遅い。決済も今ほどなめらかではない。画像も、今見ると少し不器用でした。堂々とした変なネクタイみたいで、逆に味があったとも言えます。
私は自分に言いました。
「ちょっと見てみるだけだ」
これは多くのギャンブラーが書にして壁に掛けておくべき一文です。
「ちょっと見てみるだけだ」
好奇心は悪いものではありません。好奇心がなければ、私は麻雀を覚えなかったでしょう。マカオにも行かなかったでしょう。古いジャズのレコードにも出会わなかった。盆栽を育てようとも思わなかった。そして、小さな木が会社の社長より頑固だということも知らないままだったでしょう。
ただ、ギャンブルの近くにある好奇心には、ひもを付けておいたほうがいい。

ある晩、私は予定よりずっと長くオンラインで遊んでしまいました。大きく勝っていたわけではありません。ひどく負けていたわけでもありません。もっと普通でした。ただ、時間が伸びたのです。
画面はホールのような合図をくれませんでした。足の疲れもない。終電もない。煙草の匂いもない。店員が横を通ることもない。「ここに長くいすぎた」という感覚も薄い。
もう一回。
もう一回。
そして、ノートパソコンを閉じたあとに来た、あの妙な感じ。
部屋は静かでした。妻はもう寝ていました。夜更けの家には、冷蔵庫の音さえこちらに失望しているように聞こえる静けさがあります。

私は劇的な金額を失ったわけではありません。ここは大事です。人はギャンブルの教訓が、大きな衝突音と一緒にやって来ると思いがちです。でも、時には請求書がそっとドアの下に差し込まれるように来ます。
失ったのはお金だけではありません。時間でした。注意でした。そして、自分が思っていたより長く、画面に居座らせてしまったという、あまり気持ちのよくない事実でした。
「静かな負けほど、あとから効いてくる」
その夜、私はうるさいパチンコホールでも学ばなかったことを学びました。オンラインの賭けは、時間の形を隠すことがある。
お金は数字になる。
時間は、何でもないものになる。
そして時間が何でもないものになると、人は少し導かれやすくなります。
「自分はコントロールできる」だけでは足りない
若い人はよく言います。
「自分はちゃんとコントロールできます」
私も言っていました。
二十代にも。三十代にも。残念ながら、四十代にも。
七十になった今、この言葉を私はあまり信用していません。バカラの台で「流れが読めた」と言う人より、少しだけ信用するくらいです。
自制心はあります。たしかにあります。でも石の壁ではありません。どちらかといえば障子です。役に立つし、美しい。でも地震のときに全体重を預けるものではありません。
休んでいるときは、自分をコントロールできるかもしれません。
疲れているときはどうでしょう。
普通の仕事帰りなら大丈夫かもしれません。
上司から、怒鳴られるよりも重い、あの丁寧すぎる言い方をされた日はどうでしょう。
少し勝っているときは冷静かもしれません。
「惜しかった」のあとに負けて、胸の中に細い熱い針のような悔しさが残ったときはどうでしょう。
少額なら平気かもしれません。
では、ボーナスが付いて、もうそのお金が完全には自分のものに感じられなくなったときはどうでしょう。
ここから先、ギャンブルはゲームの問題というより、状態の問題になります。
今の私は、何かを遊ぶ前に――合法なゲームでも、練習でも、友人との小さな麻雀でも――自分にいくつか聞きます。
なぜ今、遊びたいのか。
落ち着いているか。
疲れていないか。
気分を直すために遊ぼうとしていないか。
いつ止めるか、もう決めているか。
もし負けても、夕飯を普通に楽しめるか。
最後の質問は簡単すぎるように見えるかもしれません。でも、簡単な質問は隠れ場所をあまり与えません。
その遊びが、夕飯や睡眠や家の人への優しさを壊すなら、画面に表示されている数字よりも大きなものを賭けています。
妻は、結婚して四十五年以上の間で、私に一番よい資金管理の助言をくれました。もちろん「バンクロール」などという言葉は使いません。野菜を切りながら、こう言っただけです。
「年金だけは負けないでね」
軽い言い方でした。
でも、その一言の中には、家庭を守るための仕組みが全部入っていました。
家族のお金に触らない。
家賃に触らない。
医療費に触らない。
子どもや孫のためのお金に触らない。
一か月を穏やかに暮らすための生活費に触らない。
使ってよいのは、心の中であらかじめ手放しているお金だけです。失っても怒りで自分が醜くならないお金だけ。
これは映画にはなりません。雨の中で誰かが「俺は家計を守った」と叫ぶ場面は、たぶんあまり人気が出ません。でも現実の生活では、尊厳はこういう場所にあります。
「惜しい」の危うさ
オンラインカジノが人を引きつける理由のひとつに、「惜しい」という感覚があります。
もう少しで勝てた。
もう少しで当たった。
もう少しで取り戻せた。
もう少しで流れが分かった。
パチンコでは、この感覚が身体に来ます。玉が可能性の近くで踊る。音がする。金属に自分の姿勢が影響するかのように、少し体を傾ける。若いころの私はよくやりました。今の私はやっていないふりをしますが、首が覚えています。
スロット、ブラックジャック、バカラ、オンラインパチンコでは、この「惜しい」が強い燃料になります。
人の心は、「惜しい」を証拠のように扱うことがあります。
「近かった。だから次は来るかもしれない」
でも、近かったことは約束ではありません。
私は麻雀の小さな部屋で、それを学びました。煙の中で、男たちが平静を装っている。けれど指が少し裏切っている。あと少しで形になる手も、罠になることがあります。弱く見られたくないから参加する。その自尊心の代金を払うことになる。私も昔、大阪で一度やりました。牌が悪かったのではありません。私の見栄が悪かったのです。

その教訓は残りました。
すべての手に参加する必要はない。
すべてのゲームに次の一回が必要なわけではない。
すべてのニアミスに意味を与える必要はない。
若い人は、続けること、押すこと、改善すること、あきらめないことをよく教えられます。勉強、仕事、スポーツ、語学、音楽ではとても大切です。私の孫娘はピアノを練習していて、間違えると鍵盤に裏切られたような顔をします。私は「もう一回、ゆっくり」と言います。ピアノにはよい助言です。
でもギャンブルには危ない助言です。
ギャンブルでは、粘ることがいつも美徳とは限りません。
時には、現実を受け入れたくない気持ちが、粘りに見えているだけです。
だから私は、若い人が仕事の考え方をカジノに持ち込むと少し心配になります。「解決する」「改善する」「押し切る」「取り戻す」。
カジノは試験ではありません。努力を同じようには報いてくれません。
テーブルは、あなたの努力家ぶりに感心しません。
ボーナスという、やわらかい縄
私は昔から、強すぎるボーナスをあまり信用していません。
すべてのボーナスが詐欺だと言いたいわけではありません。それは単純すぎますし、単純な怒りは別の方向で人を雑にします。
ボーナスは合法的なものかもしれません。条件が明確に書かれていることもあります。普通のキャンペーンとして存在することもあるでしょう。ただ、ボーナスの目的は、多くの場合、あなたを自由にすることではありません。あなたをそこに留めることです。
ボーナスは時間を買います。
あなたの時間です。
あなたの注意です。
本来なら止めたかもしれない瞬間の、その先へ進む気持ちです。
ウェルカムボーナス。フリースピン。キャッシュバック。ロイヤルティポイント。VIPランク。リロードオファー。期間限定報酬。特別ミッション。本日限り。
これらはただの言葉ではありません。小さな針です。
一番危ないボーナスは、自分が賢く得をしているような気分にさせながら、行動を変えてしまうものです。
十分钟だけ遊ぶつもりだったのに、ボーナスの期限が迫っている。
小さく勝ったところで止めるつもりだったのに、条件達成まであと少しになっている。
追加で入金しないつもりだったのに、このオファーを逃すのはもったいないように見える。
「もったいない」は、日本の家庭では強い言葉です。うちの妻など、冷蔵庫の扉が閉まっていても食品ロスを察知します。私たちの多くは、米を無駄にしない、電気を無駄にしない、物を無駄にしない、という感覚の中で育ちました。
カジノのボーナスは、その感覚を借ります。
「このチャンスを逃すな」
でも、あなたを続けさせるチャンスは、すでに何かを奪いはじめているかもしれません。
「間が消えると、人は少し弱くなる」
間とは、まだ断れる場所です。ボーナスは、その間に気づかれないように座ろうとすることがあります。
若い人にまず分かってほしいこと
日本にいてオンラインカジノを考えているなら、まず法律の点をはっきりさせてください。
日本からオンラインカジノで賭けないこと。
「海外サイトなら大丈夫」という軽い言葉を信じないこと。
日本語対応を安全の証拠だと思わないこと。
有名そうなデザインを合法性の証拠だと思わないこと。
少額なら害がないと思わないこと。
そして、「知らなかった」が強い盾になるとは思わないことです。生活の中では、「知りませんでした」で済むこともあります。燃えるゴミの日を間違えたときなど、地域によってはそれも怪しいですが。賭博の法律に関しては、「知らなかった」は大雨の日の穴のあいた傘のようなものです。
ただ、そう言ったうえで、私は警告ポスターのように話したいわけではありません。私は、自分でも何度もつまずいてきた老人として、つまずきの入り口を少し知っているだけです。
自分が本当は何を求めているのか、聞いてみてください。
お金ですか。
刺激ですか。
仕事から離れる時間ですか。
誰にも見られない場所ですか。
自分でコントロールしている感覚ですか。
退屈な夜を少し尖らせたいのですか。
小さくなった気分を取り戻したいのですか。
答えは大事です。
ギャンブルは、それでは治せないものの薬として使われるとき、一番危なくなります。
悪い気分はテーブルで良くなりません。大きくなるだけです。
孤独はボーナスラウンドで軽くなりません。高くつくだけです。
怒りは、ボタンを押したからといって戦略にはなりません。
疲れは勇気にはなりません。
若いころの私は、苛立ったあとに遊んだことがあります。気分を変えたいのだ、と自分に言い聞かせました。愚かでした。でもよくある愚かさです。悪い判断は、たいてい普通の服を着ています。
今の私は、家族と口論したあと、悪い知らせのあと、酒のあと、ひどく疲れたあとには遊びません。夜遅く、部屋が静かすぎて、頭の中で変な取引が始まる時間にも遊びません。
昼間に止まれない人は、真夜中に自分を試さないほうがいい。
昔のホールが清らかだったわけではない
私は「昔はよかった、今は悪い」と言いたい老人にはなりたくありません。
昔も清らかではありませんでした。
古いパチンコホールもお金を吸いました。麻雀の部屋も時に残酷でした。マカオのテーブルにも罠はありました。品よく負ける人も見ましたし、品なく勝つ人も見ました。マカオで大きく勝ったのに帰れなかった人を見たこともあります。数時間後、その人はもう勝者の顔をしていませんでした。勝つ前の自分を取り戻そうとしている人の顔でした。
その光景は、今も残っています。
人はよく、負けを取り返そうとする話をします。でも、勝ちを追いかけることもあります。
よい勝ち方をすると、判断の帯がゆるみます。「今日は違う」と思う。リスクに寛大になる。あらかじめ自分を許してしまう。
勝利は人をやわらかくします。
負けはうるさい先生です。勝ちはぬるい風呂です。長く入りすぎると、のぼせます。
だから、オフラインの賭けが安全だったとは言いません。ただ、昔の場所には、もう少し見える角がありました。現実の世界は、自分に気づく機会を多くくれました。
オンラインでは、その角が磨かれています。
自分で作らなければ、帰り道がありません。
ノートパソコンを閉じなければ、終わりの音もありません。
台所に心を戻さなければ、妻が味噌汁について聞く声も聞こえません。
だから私は、ときどき読者にこう言います。ギャンブルに関する判断をしなければならないなら、まず立ちなさい。物理的に立つ。椅子から離れる。コップを洗う。ベランダに出る。駐車場の横で頑張っているような疲れた街路樹でもいいから、木を見る。
体は、誇りが認める前にいろいろ知っています。
「安全なカジノ風エンタメ」はあるのか
カジノ風のゲームを安全に楽しむ方法はないのか、と聞かれることがあります。
日本国内からオンラインカジノで実際に賭ける話なら、法律上の答えは変わりません。日本からやってはいけません。
現金を賭けないエンタメとして、確率を学ぶ、無料のカジュアルゲームで遊ぶ、ブラックジャックの基本戦略を数学として読む、映画の中のカジノシーンを見る。そういう話なら別です。ただし、それでも入金やボーナスや「一回だけ本番へ」という方向に引っ張ってくるものには注意が必要です。
入口は大事です。
無料版は、精神的には無料でないことがあります。ショールームである場合もあります。
私は孫たちに、賭け方ではなく「運の数学」の話をします。「惜しい」は「次」を意味しないこと。人はランダムなものにパターンを見たがること。子どものほうが大人より素直に理解することもあります。大人はすでに、自分に上品に嘘をつく技術を覚えていますから。
孫が以前、コインを投げて四回連続で表を出しました。そして言いました。
「次は裏でしょ」
私は言いました。
「そうかもしれない。でもコインには記憶がないよ」
孫は少し残念そうな顔をしました。大人も同じ話をされると、よく残念そうな顔をします。ただし大人の場合は、バカラシューともっと高い椅子が付いているだけです。
コインには記憶がありません。
機械には同情がありません。
インターフェースには、あなたの家賃への責任がありません。
詩的な言葉ではありません。でも役に立つ言葉です。
古い遊び人の小さなルール
若いころの私は、秘密の必勝法のようなものを欲しがっていました。
今は、小さなルールのほうが好きです。
秘密の必勝法は、人を強くなった気にさせます。
小さなルールは、人を少し愚かでなくします。
私が気に入っている小さなルールがあります。
リスクのある遊びでは、始める前に終わりを決めること。

勝ったあとではありません。
負けたあとでもありません。
疲れたあとでもありません。
ボーナスが出てきたあとでもありません。
始める前です。
どのくらいの時間か。いくらまでか。どんな気分なら続けていいのか。どんな気分になったら止めるのか。どのお金には絶対に触らないのか。明日の朝をどういう気分で迎えたいのか。
日本のオンラインカジノについては、繰り返しますが、決めることは単純です。日本から賭けないこと。ただ、このルールは他のことにも使えます。買い物、酒、投資、ネット上の口論、ジャズを聴きながら食べる煎餅にさえ使えます。私は煎餅に関しては、思っている以上に自制に失敗しています。幸い、米菓にはキャッシュバックがありません。
大事なのは厳しさではありません。正直さです。
一番よい遊び人は、いつも勝つ人ではありません。
自分に嘘をつく回数が少ない人です。
これを覚えるのに、私はずいぶん時間がかかりました。かかりすぎたかもしれません。でも、人によっては、同じ失敗を何度もしてようやく入ってくる教訓があります。若いころの助言は、傘に当たる小雨のようなものです。音は聞こえる。でも濡れない。あとになって、十分な天気を経験してから、やっと意味が分かることがあります。
日本の恥と沈黙について
もうひとつ、特に若い人に言っておきたいことがあります。
もしすでに日本からオンラインカジノを使ってしまったことがあるなら。あるいは、自分で少し制御できなくなっていると感じるなら。恥ずかしさで黙らないでください。
日本は沈黙が上手な国です。
人に迷惑をかけないようにする。表面をなめらかに保つ。「大丈夫です」と言う。中は全然大丈夫でなくても、そう言う。これは小さな人間関係の場面では美しいこともあります。でも、問題に空気を入れなければならないときには危険です。
ギャンブルの問題は、秘密の中でよく育ちます。
閉め切ったカーテン。隠したアプリ。消したメッセージ。誰にも言えない借金。「自分ひとりで何とかする」という言葉。
私は、いつも正直だった人間としてこれを書いているわけではありません。帰宅が遅すぎて、静かすぎた夜もあります。神戸で長く遊んだあと、妻が何も聞かなかったことがありました。あの沈黙は、説教より重かった。説教には反発する相手があります。沈黙には、自分しか残りません。
もしギャンブルがすでに重くなっているなら、誰かに話してください。家族、信頼できる友人、相談窓口、必要なら法律の専門家。プライドは高くつきます。助けは、恥ずかしく感じても、そのぶん安いことが多い。
そして、身近な人がギャンブルの悩みを話してきたら、最初から裁判官のようにならないでください。テレビドラマの見せ場を作らなくていい。まず聞く。その人は、おそらくあなたが足せる以上の恥を、もう抱えています。
もちろん、何でも許せという意味ではありません。境界は必要です。お金は大切です。家族は守らなければなりません。でも、恥だけで行動が直ることはあまりありません。たいてい地下へ押し込むだけです。
止めることの、少し不思議な優しさ
七十になると、始めることより止めることをよく考えます。
自然なことかもしれません。老いには、止めることがたくさんあります。仕事を止める。長い夜更かしを止める。医者が悲しい目で見る食べ物を止める。膝がまだ忠実だという思い込みを止める。
でも、止めることは失うことだけではありません。
止めることには、優しさがあります。
早めに止めると、その夜を自分に返すことができます。
苛立つ前に止めると、夕飯の席の妻に、少しまともな夫を返せます。
追いかける前に止めると、明日の朝の自分に静かな頭を返せます。
違法なもの、自分の状況に合わないものを拒むと、未来の自分に片づけものを少なくしてやれます。
若い人は、自由とは何にでも入っていけることだと思いがちです。
今の私は、自由とは入らないでいられることでもあると思います。
「全部の勝負に座る必要はない」
この言葉は、ギャンブル以外にも使えます。
すべての挑発に答えなくていい。
すべての流行に乗らなくていい。
熱いものに触って、自分の勇気を証明しなくていい。
好奇心を、必ず参加に変えなくていい。
一番強い行動が、劇的でないこともあります。ページを閉じる。スマホを置く。お茶をいれる。外へ出る。普通の生活が壊れる前に、普通の生活へ戻る。
普通の生活は、案外軽く見られています。きれいな湯のみ。ベランダの小さな木。古いレコードから流れるジャズ。妻が「豆腐買ってきた?」と聞く声。京都にいる娘からのメッセージ。孫が「なんで確率ってこんなに不公平なの」と聞いてくること。
これらは勝利のように刺激的ではありません。
でも刺激よりいいものです。
刺激は上がって下がります。平穏は、苔のように少しずつ増えていきます。
結局、オンラインカジノは日本で違法なのか
はい。
日本にいながらオンラインカジノで賭けることは、たとえそのサイトが海外で合法的に運営されていても、日本の法律上は違法と考えるべきです。
まず、それが第一です。
ただ、第二に言いたいのは、たとえ法律がなかったとしても、慎重さは必要だということです。法律上のリスクは重大です。でも、人間のリスクはインターネットよりずっと古い。
人間のリスクとは、焦りです。
取り戻したい気持ちです。
自分だけは違うという思い込みです。
勝ったあとの温かい感覚です。
負けたあとの熱い感覚です。
ボーナスというやわらかい縄です。
間が消えることです。
カジノは、欲深さだけを罰するのではありません。焦りを罰します。疲れを罰します。「もう少しだけ」と言う直前の、小さな自己欺瞞を罰します。
私は若い人に生き方を命令することはできません。七十にもなると、命令するのが好きな老人を少し疑うようになります。私たちの多くは、過去の失敗を知恵らしく見せようとしているだけかもしれません。私はなるべくそうならないようにしていますが、まあ、少しは失敗しているでしょう。年寄りの癖です。
それでも、これだけは言えます。
アクセスできることを、許可されていることと混同しないでください。
海外ライセンスを、日本での合法性と混同しないでください。
娯楽を、無害と混同しないでください。
「惜しい」を「次」と混同しないでください。
続けられる能力を、続けるべき強さと混同しないでください。
今日の午後、私は盆栽に水をやるつもりです。そのうち一本は、もう二十年以上うちにいます。ゆっくり育ちます。こちらがやりすぎないときだけ、ちゃんと育ちます。水をやりすぎることは優しさではありません。切りすぎることは規律ではありません。見つめすぎることも、時には干渉になります。
人も似ています。
リスクのまわりには、余白が必要です。間が必要です。境界が必要です。立ち去る道が必要です。
オンラインカジノは、その余白の多くを消します。日本の法律は、ひとつはっきりした境界を示しています。日本から賭けてはいけない。
私自身の生活も、もうひとつの境界を教えてくれました。公式なものではありませんが、何度も試されてきた境界です。
帰り道を守ること。
翌朝を守ること。
生活に属するお金を守ること。
そして迷ったときは、間を選ぶこと。
「今日は引き際が一番の勝ちだ」
今日は、やらないと決められることが、一番の勝ちなのかもしれません。