
麻雀は四人で打ちます。けれど若い頃の私の卓には、ときどき五人目がいました。
他人からどう見られるか、という気持ちです。
牌の形や点棒とは関係のないところで、そいつは口を出します。ここで退けば弱く見える。押せば腹の据わった人間に見える。誰かにそう言われたわけではありません。自分で相手の評価を想像し、自分でそれに返事をしていたのです。
若い頃、大阪の小さな部屋で、見送るべきだと思っていた局面に入ったことがあります。他の人に怖がっていると思われたくなかったからです。そして負けました。この出来事については、このブログを書き始めた理由を記したプロフィールにも短く書いています。
金を賭ける麻雀に顔を出していたことを、正当化したり勧めたりするつもりはありません。ここで考えたいのは勝敗や金額ではなく、見栄が判断より先に一手を選んだことです。
そのとき最初に学んだのは、参加することと勇気があることは同じではない、ということでした。
「参加しない」ではなく、目的を変える
この教訓を「全部の局に参加する必要はない」とまとめると、少し格好よく聞こえます。ただ、麻雀の説明としては正確ではありません。席にいる以上、降りても局から消えるわけではない。牌を引き、牌を捨てながら、アガリを目指すことから放銃を避けることへ、その局での優先順位を切り替えます。
一局だけを勝つゲームでもありません。ルールによって評価方法は異なりますが、たとえばMリーグの公式戦ルールでは、競技順位は半荘終了時の合計得点で決まり、ロンアガリでは放銃者が三家分を一人で支払います。目の前の手を育てる価値と、危険な牌を押す代償は、半荘全体の中で考えることになります。
もちろん、降りればいつも正しいわけではありません。手牌の価値、巡目、点棒状況、相手の動き、採用しているルールによって、押す理由も降りる理由も変わります。強い打ち手同士でも押し引きの意見が分かれるほどです。
ですから、私が覚えた「ルール」は守備を勧める公式ではありません。慎重さを正解にしてしまえば、それもまた考えることをやめる口実になります。問題だったのは、牌から得た情報ではなく、弱く見られたくないという気持ちを判断材料に混ぜたことでした。
大胆に見えることと、よい判断は別です
見栄が厄介なのは、無謀な選択に勇気らしい名前を付けてくれるところです。危険を承知で押す。迷わず決める。ほかの人が退く場面で前へ出る。行動だけを切り取れば、強そうには見えます。
2025年に名古屋大学の研究者が日本の成人299人を対象に行ったリスクを取る人への社会的評価を調べた研究では、リスクを取る人物は避ける人物より支配的だと評価されました。一方で、尊敬や威信に当たる評価には有意な差がありませんでした。
これは架空の人物像を読んで評価する調査で、麻雀打ちを観察した研究でも、賭け事での選択を測った実験でもありません。私があの局面で押した理由を証明するものではない。それでも、大胆に見えることと尊敬されることを分けて考えるには、興味深い結果です。
若い私は、弱く見られることを避けようとして、実際の危険を引き受けました。しかも、相手が本当に私をどう見ていたかは分かりません。点棒は減れば数えられますが、頭の中で作った評判には点数表示がない。ずいぶん勘定の合わない交換でした。
一手を点検するなら、相手の目を消してみる
押すか降りるかを決める技術的な答えは、一つの標語からは出ません。私が後から点検できるのは、その判断に何を混ぜたかです。
もし誰にも見られていなかったとしても、同じ牌を切っただろうか。
この問いは安全牌を教えてくれませんし、勝率も上げてくれません。ただ、「手がまだ生きているから押す」と「弱いと思われたくないから押す」を分ける助けにはなります。前者は局面についての判断です。後者は自分の評判を守るための行動であり、牌の情報が変わってもいないのに、危険だけを増やすことがあります。
逆も同じです。失敗を笑われたくないという理由で早く降りるなら、それも麻雀上の判断とは限りません。押すことを勇気、降りることを臆病と決めてしまうと、どちらを選んでも牌より自分の姿を見ていることになります。
今振り返ると、麻雀で最初に覚えたのは「いつも降りろ」という教えではありませんでした。他人に見せたい自分を、卓の上の情報より先に置かないことです。
若い頃の私は、麻雀は人を読むゲームだと思っていました。あの一局で先に読むべきだったのは、読まれることを気にしていた自分のほうでした。